top of page
執筆者の写真Yukiko Yoshida

ダークマターとダークエネルギーが心にあったら⑤



ダークマターが心の世界(宇宙)で「死」で、ダークエネルギーが「人生」ならば、物理の実際の宇宙で2つが共存しているのと同じように、私の心の中でもこの2つが共存しているか?

これが待合室で次に思った疑問でした。

確かではありませんが、自分の感覚としては、シテルカモ!(実証の方法わからない)

私は、生きる、ということを考えたとき、「死」の概念というのは常に存在感の大きいもののように感じます。

ダイレクトに「死」と考えなくても、「生きたい!」という力に反する何かしらの作用を覚えることが私はあります。それは必ずしも自殺願望とかそういうわけではなく、「もうがんばれない」「何もしたくない」などといったことも含みます。

「ねー大丈夫なった?」「元気してる?」と聞かれると、自分では相手に「元気に生きてる」という答えが言えないことにもどかしさを覚えることがあります。元気に生きているといったことを、期待しないでくれ、と思うことも正直あります。

私は咲セリさんの『死にたいままで生きています』という本(の特にタイトル)に衝撃なかば、心の深いところで共感を覚えました。

どんな生き方だとしても、私にとって生きているということがたとえ「生きたい!」という力だけで成るのではなく多かれ少なかれそこに「死にたい」があって成っている、というと、多くの人には理解しがたく聞こえるかもしれません。死にたいままで生きる、とか、大丈夫じゃないままでも生きるとか、つらいことはつらいまんまだけど、まあ昨日のテレビは笑ったとか、苦しい症状は続いてるけど、7月の富士ロックにビヨークが来るの地味に楽しみとか、生だけに満ち満ちた人生じゃないかもしれないけど、生きている。死の性質が作用している状態で人生がある。

私の空想は半分お遊びかもしれないけれど、私の中にもしかするとダークマター(死の性質)とダークエネルギー(生の性質)が共存したままで生きている、というのは、真面目に考えたことでした。それがあるままで生きる、ということは、障害であると考えたくありません。誰も宇宙をみて、ダークマターとかダークエネルギーがあってかわいそうね、とは思わないんじゃ?と考えるからです。宇宙のそれは、もし今は理論だけだとしても、それがあるとしたら、ただそれはあるということだから、そこに判断を入れたくないのです。

宇宙でダークマターとダークエネルギーとその他物質が共存し宇宙を成しているのなら、私の中の性質たちも、それがダークマターやダークエネルギー、他さまざまな性質に及んで、「共存する」ということが不可能でも理解不能でもないように少し思えたのです。

そう考えたことは、私にとって自分の少々ぶっ飛んだ理論がなんとなく裏付けられた(validateされた、承認された、有効化された)ような感覚なのでした。

待合室でNewtonを手に、空想や構想が広がって始まった「ダークマターとダークエネルギーは心にもあるか?」というアイディア。アイディアでしかないけど、されどアイディア。これをこうしてシェアすることができて、そしてここまで読んでくれて、とてもありがたいです。長かったですが、ここまで読んでくれてありがとうございます。これにてシリーズを完結します。思ったことや、又物理に関して「そこ実はこうだよー」などありましたら、コンタクトページから優しさ込めて送ってやってください:)ありがとう。


閲覧数:40回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page