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執筆者の写真Yukiko Yoshida

Why Is Nodame So Encouraging? 「のだめカンタービレ」を見て励まされること



中学生の頃、私は「のだめ」に夢中になっていた時期がある。架空の音大を舞台に展開していく、音楽マンガだ。のだめ、は主人公「野田恵(のだめぐみ)」の愛称である。

そもそも私は「この学校は、英語部、という珍しい部活があるから入る!」というのを受験理由のひとつに入学したのに、「音楽部」という部活に入部をした。友達を巻き込んで、「試しに受けてみようよ、せっかくだし!」と入る気があるわけでもなく体験入部し、(失礼ねわたし)、私はトロンボーンという楽器に出会った。

いじめにあったり、起立性調節障害が発症し始めたりで大変だった中学1年、マンガと本と音楽は私が夢中になって楽しめたものたちである。

毎日夢中で練習するうちに、トロンボーン、音楽の世界、みんなで演奏をすることに、どんどん引き込まれていった。

主にいじめと、身体を壊したのが原因で、学校を2年になる直前に退学した。

その後、大好きなトロンボーンを吹いたのは月に数えきれるほど、年に数えきれるほどになっていき、ついには最後にいつ吹いたかの記憶がおぼろげになるほどになった。

そんな中で再会したのが「のだめ(今度はアニメ)」だ。つい先週からのことである。なんだか見たくなって、見始めたら、やめられなくなった。(ハマりやすい性格なんです。)

いつもは大抵、映画にしても海外ドラマにしても過食しながらとかケータイ見ながらとかで「つらいことから気をそらす」目的で何かをハマって見る。それが、のだめを見ていたら、過食をする気が失せてしまったことが何度かあった。ただの音楽の、そして全然見ない「アニメ」なのに、(失礼ねわたし)、何かが過食の衝動ループを、吸い込んでしまった。

のだめマジック。

一体、なんでだろう?

還元マジック

音楽のシーンで、まず知覚が、奪われた。

いつもはあっちこっちの刺激にひっぱりだこになって、知覚の嵐が起こる。映画を見ていても、電球の光とか、隣の家の音とか、本棚に並んだ本のタイトルとか、記憶でループしてる出来事とか、解決してない心配事とか、そういうのが頭の中を強烈に駆け巡っている。ひとつひとつの「情報」から、「たくさんの考え」が浮かぶから、気持ちもいっぱいいっぱいになる。いくらこれが日常とは言え、よくしんどくなってしまう。

そんな知覚の嵐が、バサッと床に落っこちて、ひとつの対象に持っていかれたことが、実は今までにも何度かあった。

ヤバいダンスを見たとき。

心に入ってくる音楽を聴いたとき。

大好きな映画の予告編が流れたとき。

今回ののだめも、一般に言うところの、「手が止まる」現象をもたらした。

耳が、目が、心が、頭が、音楽に持っていかれた。おおげさねぇー、と思うかもしれないが、時々こういうことが起こるのである。

何はともあれ、のだめカンタービレの中のいくつかの音楽は、奪った私の知覚を「満足感」で返却してくれた。

気持ちが、揺さぶられたのに、気持ちがいい。(「気持ちが揺れる」ときは大抵「苦しい」場合が多い)

心が、奪われたのに、還元されたら元よりいい状態になってる。のだめ還元マジック。

のだめ界の「事例集」

でもそれだけじゃない。

この作品では、みんなの頑張りがよく見える。ひとりひとりが、自分の楽器をめちゃくちゃ練習している。のだめもだ。それもあるから、指揮者の要望に自分を合わせることができる。指揮者に「へたくそー!」と怒鳴られても、練習して成長して来る。

「うまくなりたい」はみんなが思うことだけれど、彼らはその気持ちをちゃんと行動化している。音楽の世界も、踊りの世界も、スポーツの世界も、きっとみんなそうやって「うまくなりたい」を「かたち化」していって、「うまい」になっていくのかもしれない。

私の中にも実は、「うまくなりたい」「できるようになりたい」がある。時にこれは、全然かたちにならないからとっても苦しい。だから「先を見る自分」と、「現状を見つめる自分」が、賢く共存したらな、と思っては、結局どうしたらいいのか分からなくなって行動がちぐはぐになってしまう。

できない自分を受け入れて、達成可能なことを積み重ねていく。これが結構、難しい。

できない自分が恥ずかしいし恐くて、受け入れたくない。達成の難しいステップを試して、失敗してとってもくじける。恥ずかしさと、恐怖が余計に増してしまう。精神医学で例えれば「森田療法」なんかがこれをうまく説いているのでは、という気が私はする。

のだめたちが、一生懸命に練習をしている姿や、「練習しなさい!」と叱咤されている姿や、実際にできるようになっていく姿は、そんな私にはひとつの「事例」になっているのかもしれない。

「へたくそー!」なんて怒鳴られたら、落ち込むよね…とか。

「練習してきたの?」と睨まれたら、その時間のレッスンとか全体練習とか、結構地獄だよね…とか。

「向いてないんじゃない?」なんて言われたら、めっちゃショックだよね…とか。見ていて思う。

それでも教えてもらって、練習して、モノにしていく。できるようになる。それが私の中の、「一生無理」「私は完全に無能」「へたくそはここにいらない、ここに私の居場所ない」みたいな絶望的な考えの「クセ」に、反論材料をくれる。何より、泣いてしまったり心が抜け殻になりそうになったりしつつも、乗り越えていくみんなの姿に勇気をもらう。

えーっと、現実で起きていることじゃないから説得力ありません、と思う人もいるかもしれないけれど、私はそこはありがたく励まされることにしている。心を奪われるままに見入って、演奏のシーンで泣いちゃう。がんばったなーのだめ…とか、すごー、まるで何かが乗り移ったみたいだー…とか。ひ、ひとつになってるー…とか(オーケストラ)。感動しちゃう。

自分が、「うまくなりたいな」を「無理だ」と思わない瞬間に出会える。

自分らしさを強みにしていく

のだめはある意味天才で、楽譜通りに弾くのは苦手だけど、聞いたものを、聞いただけで弾けてしまう。そしてそこに現れる感性は、ただ聞いたものを「コピーする」にとどまらない。のだめ「らしさ」がそこにある。

これが原因で、たくさん苦労もする。

先生には怒られまくるし、「せっかく上手いんだから上を目指せ!でも目指すならそれじゃだめ!」と叩かれる。

「上なんていい。のだめは幼稚園の先生になれればいい」と、本人は苦悩。くじける。やめそうになる。

でも「やっぱりピアノをやりたい」という気持ちがあること、ちゃんとやることには「メリット」があることなどを、改めて感じていく。

(そののだめに感心する一方で彼女ををくじく人たちに、キーー!と思うゆきこ)

くじかれても、くじけても、カムバックしたのだめ。

のだめらしさを活かそうとする先生と、のだめを正そうとする先生。

両方の存在がありつつも、のだめ自身がのだめでいること。のだめらしさが、武器になっていくこと。のだめ自身がそれを、無意識的でもかたちにしていっていること。

これをエピソードが進むごとに目撃するのも、私の中でどこか「事例」になった。

私はのだめじゃないけれど、らしさを「いいんだよー、そのままで」とする声と、「世の中ではそれじゃ通用しない!」とする声のはざまで、何が何だか分からなくなることがある。性質が強みとも弱みとも転ぶから、どこに足を置いたらいいのか分からなくて降りたくても降りられない空中ブランコに乗っている気分になる。恐いし、混乱するし、嫌になる。自分を恥じる。

「自分らしさ」を邪魔な異物みたいに感じて、外の空気感に矯正しようとする。

のだめの周囲にいた2つの「先生」たちの存在は、どちらも今冷静に見ると「役割」があるのが分かる。

それぞれの役割のはざまで、すごく苦労するけどピアノを続けていくのだめは、私にとって客観的な事例のひとつだ。

結果的に、自分らしさを武器にしていっているのだめを見て、絶望的じゃない「視点」をくれる。ちゃんと「のだめ」として生きて、「のだめ」として自己実現している。すごいなー、と、思う。

「励ましのメカニズム」おわりに

こんな風に、『のだめカンタービレ』の様々な要素からちょっとずつ「励まし」をもらっているわけだ。

もちろん、単純に面白いから笑える、というのもある。ちょっと笑えるのが見たい、と言うときにもぴったりなのである。

そんなのだめを、今回は「励ましのメカニズム」として(あくまで私個人の場合ではありますが)、ちょっと書いてみた。

「である調」になっちゃったのは、ノリです。一貫性にかけるブログでごめんよ!

読んでくれて、ありがとう。


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