バカにできないプー、ジョークにされているプー
A.A. ミルン著の『クマのプーさん』を知っているでしょうか。
プーさんがどうやら、哲学や心理学の世界で「実は深い」と謳われるのは前に目にしたことがあったのですが、原作をきちんと読んだのは私はつい最近のこととなりました。そのプーが、確かにバカにできない、深い面白みをもっていることも発見することとなりました。
「プー」をバカにできないぞ、というだけでなく、プーを真面目に学問に取り入れている人たちをも、です。
以前pinterest(写真を主体に、興味あることをオンラインで共有したり自分流に集めてみたりするインターネットサービス)で、プーさんの世界をジョークにしている画像を見かけました。
「プーさんと仲間たちはみんな精神医学的に問題がある」というものです。イーヨーはうつ病、ピグレットは不安障害、ティガーはADHD、クリストファー・ロビンは統合失調症だ、といったように。あくまでジョークではありますが、もし気分を悪くしてしまったらごめんなさい。
ゆきこ、心の病気のヒントを見つける
そのジョークが面白いか否かは置いておくとして、私はたとえプーさんたちが少しばかり問題アリだと言われても、このキャラたちにはそれ以上に「心の病気のヒント」が隠されていると感じました。
一体何を言い出すかとお思いかもしれませんが、どうぞしばしお付き合いください。
「なんとも分からないですよ」の法則
プーがハチミツを取るために、木の高いところにあるハチの巣を目指します。高いところにバレないように近づくには風船がいいぞ、と考えつきと、プーはクリストファー・ロビンに相談します。
すると、「でも、風船の下にいる、きみのこと、きがつかないかなぁ。」とクリストファー・ロビンが言います。
プーは「つくかもしれないし、つかないかもしれない。ハチが相手じゃ、なんともわからないですよ。」
私はここで先ず、うーーん、と唸りました。この考え方は、私にはなかなかできない。何か疑問に思ったり、心配になったり、問題点が浮上したりしたとき、どこか「うまくいくならすぐに、なるべくきっちりやろう」「うまくいかないなら絶対にやめる」「どっちか分からない、計算エラー発生」となり混乱します。「これをやろう」と思いついて、実行にうつす、というのが、どうしてか難しくなってしまうのです。
例えば、私は先月、海外にいる友達にちょっとした贈り物をしよう、という思いつきをしました。なかなかいい思いつきに思えてワクワクしたものの、準備のために計画を頭で練っているうちになんだか実行が難しそうなステップしか見えなくなり、ついに今日を迎えてしまいました。手紙を手作りの便せんにしよう。誰々に何のプレゼントを贈ろう。買い出しはどこでしたら安いかな。買い物に行けるかな私。外出が難しいな。スーパーの前にコンビニで練習しよう。ああコンビニも行けなかった。どうしよう、どこにも行けない。行けると思っても、段取りに融通が利かない。
ようやくプレゼントは買えて、便せんも用意でき、あとは手紙を書いて送るだけ、というところまで達成し、どうして余裕を持ってスタートしたのにこんなにギリギリになっちゃったのかしら?と我ながら疑問に思いました。「あれがこうじゃなきゃ、だめ」「何日に送ると何日に届くのかなぁ」など、考えても確実な答えが出るとは限らない問いを自分にひたすら投げては、グルグルと悩み、あくせくしてしまう。
森田療法で言うところの、「かくあるべし」と「かくある(あるがまま)」のうち、「かくあるべし」の考え方と言えるかもしれません。(*1)
「私はこうすべきなのにこうできない」「こうしてからこうするのが筋道だ」「こうすると決めたからできないといけない」と言ったように。
プーの「つくかもしれないし、つかないかもしれない。ハチが相手じゃ、なんともわからないですよ。」は、私にとってヒントになりました。
「どうなるか分からないこと」は、私には沢山あります。
相手に何かを言うとき、なんと反応が返ってくるか分からない。
「自分の望む通りかもしれないし、否かもしれない。相手がどう反応するかなんて、なんともわからないですよ。」
「分からないもんなんだ」と思って臨むと、例え想定内でも想定外でも、すこーしだけクッションが入る気がします。
一日の過ごし方を考えておいても、何が起きるか分からない。過食したくなったらどうしよう。
「過食したくなるかもしれないし、したいと思わないかもしれない。今考えても、のちのち何が起きるかなんてなんとも分からないですよ」「過食しちゃうかもしれないし、過食しないかもしれない。どうなるかなんて、今はなんとも分からないですよ」
分かるのは、今この瞬間、分からない、ということです。ならば今この瞬間は「分からないということを、分かる」。それってマインドフルネスじゃなかろうか。
おわりに
今回挙げたのは『クマのプーさん』の中の、ひとつの場面ですが、ミルンの書き上げたプーの物語にはこれ以外にも多数のヒントや学べるものがあるように私は感じました。
もしかすると、いつかシリーズで書くことになるかも分かりません。(著作権の問題が分からないいえーい)
『クマのプーさん』と『プー横丁にたった家』を読み終えた後、母が借りてきてくれた『クマのプーさんの「のんびり」タオ』という本からもいくつかヒントを見つけました。
思わぬところからヒントが出てくると「棚からぼたもち」、こうしてブログで記事にしたくなってしまうのでした。
追記
*1:森田療法の「かくあるべし」「かくある」とは、森田療法をつくった森田医師が提唱したもので、私が『森田療法のすべてがわかる本(健康ライブラリーイラスト版)』(北西憲二監修)読んだ情報です。うまく説明できないので、詳しく知りたい方は調べてみてください。簡単に言うならばたぶん、私の理解では「かくある(あるがまま)」と「かくあるべし」という2つの考え方があって、前者は目の前のことを決めつけや前提や理想を置いておくような姿勢で、後者は目の前のことをもっとこうしないと、とか本当はこうなのに、とかこうしていくんだ、という感じの姿勢です。どちらが悪いとか良いとかは抜きに、とりあえず森田療法ではそんなワードが出てくるんだなーふーんと思っておいてくださればと思います。保存保存保存