難しくてあたりまえ:はじめに
摂食障害について何かを書く、伝える、というのは、極めて難しいことだと思います。私の理解でこれは心の病気の中でも殊更にデリケートであり、一口には語れぬほど複雑だからです。それを私が書くに至っているのは、「言わぬが仏」ではいられないほどに「正しく理解してもらいたい」という考えがあるからです。
とは言ってもやっぱり私には「摂食障害について云々」の記事を書くことができません。あまりに責任を感じてしまうし、正しいことを書かねばと注意しすぎてついには何を書いても納得がいかなくなってしまいます。
というわけで、いわゆる「答え」や「正解・間違い」をこの記事に見出すのはどうかご用捨頂いて、私には「私が書きたいこと」をとりあえず書かせてください。
知っていく「入り口」にまず一歩
摂食障害について説明をするのは難しいですが、「私摂食障害があるんだ」と言って「それなーに」と聞かれたら「難しいから答えられない」だと相手に伝わる情報が「難しい何か」だけになってしまします。もう少し言えそうです。摂食障害だと難しいのは、食事です。
それをもう少し詳しく&めっちゃシンプルに言うとしたら、
「食欲のコントロールができないんだ」
となります。
「食べられないにしても、食べるのをやめられないにしても、コントロールができなくなり“生きづらい”にまでなっちゃった」
ひとまずの私の簡単な説明”第一歩”はそこまでになります。
この「食欲のコントロールができない」が生きづらさになるほど辛いのには、「コントロールできない」の言葉の陰にさらに何億個も絡まり合った苦しさが存在するからだと私は感じます。「食べられない」「食べるのをやめられない」以外に複雑かつ広く深く広がっている苦しさの一つ一つは、人によって本当に様々です。だからこそ「摂食障害ってこういう病気なんでしょ」と言い切るのが難しいと私は思うのです。
もっと言うと、摂食障害を全く知らないという人からよく知っているという人まで、さらに病気を抱えている本人でさえ、摂食障害そのものをよく理解するというのはとても難しいことだとも個人的に感じます。どれくらい知識があるかが、どれくらい「分かった」かに必ずしも直結しない気がするのです。
ですのでまずは、知りたいと思ってくれてありがとう。
その関心・疑問・危機感は是非持ち続けてほしいなー。
入り口の向こうは宇宙
私はこのデリケートで複雑な「摂食障害」を、パターン化したり分類したり定義したり議論したりするのが、苦手です。パターン認識そのものは得意だから好きですが、摂食にかけてはあえてそれが邪魔をしてくることがあります。チョット忍耐して私のこの考えに暫しお付き合いください笑
摂食障害による難しさは、先ほどの「食事が難しい」「食欲のコントロールができない」の入り口をまたいだ向こう側に複雑に絡まり合って広がっているように私はイメージしています。「何がつらいか」は人によって本当に様々なのです。
「食欲のコントロールができない」→「食べるのが怖いから食べられない」→「でも料理は好き」という人もいれば、
「食欲のコントロールができない」→「食べるのが怖いから食べられない」→「見るのも嫌」→「テレビで食べ物が出るのも嫌」→「食べ物の話をされるのも嫌」という人もいるとします。
これを同じ「拒食症」と観て、「制限型(過食などを伴わない)拒食症」と分類します。
ところがこの2パターンの「制限型拒食症」でも「大丈夫なこと」と「NGなこと」が異なります。
そして「食べるの怖い」2人のうち前者が、「料理もだめになっちゃった」
後者が「一日中食べ物を避けている」→「食べ物のことばかり考える」→「食べ物を避けたいのに食べ物のことで頭がいっぱい」→「過食してしまった」
など、あくまで例から仮定したものですが「変化」します。パターンが変わります。
パターンは変わります。変わるものなんじゃないかなと私は考えます。
1人の人の中でも、このようにパターンが常に変化していくとして、その人の中には無限大に未知数のパターンがあり、それが100人、100万人いたら、パターン別に分類しても治療する側が追いつかない気がします。
その人に、どんな苦しみがあって、どんな生活のしづらさ(やりたくてもやれないことなど)があって、どんな身体の状態で、どんな助けを必要としているのか。
これをパターン化したり、分類して振り分けて箱に入れたり、「ああでもないしこうでもないし」と勝手に計算式を作らないでもらえたらいいのにな、と私が思うのは、今「これ」とあるものがずっと「これ」であると限らないから、と考えるからです。エラソウナコトイッチャッタケド。
知識も大事だし、予測したり適応したり回避したりするためのパターン認識も勿論大事です。でも「摂食障害を知ること」と「その人の摂食障害」を知ることは、擦れ擦れの平行線上にあると私は考えます。だからこの病気についてほとんど何も知らない人から積極的に治療に携わっている人まで、本人を既存の型やケースに一生懸命あてはめようとするよりも、その人自身の型を一緒にかたどってみたり、変化していくその型をその都度気がついて受け入れてみたり、そんな風に思っといてくれたらなーと思うのです。(If one can dream it, one can do it, right?)
パターンや「よくある」の典型に頼らないで
「こうであるならば摂食障害」「こうじゃないなら否」と、お医者さんに言われると私は頭を抱えたくなります。(個人的な感想です)
既存する答えや正解の中から「あてはまるか」「あてはまらないか」とりあえず試されているような感じ。医師によって知識や経験に差もあるし、考え方も様々な分、もちろんみんながそうとは限りません。「助ける人」でいるのも、相当大変だとも思います。だからもし治療者側でこれを読んでくださっている方がいたら、ありがとう、ごめんなさい、これからもよろしくお願いします。(本当に心からそう思っています)
ではどうしろというのか。ごもっともな疑問です。私の考えていること(前述)は、治療者の人にとってみれば「そんなこといちいちやっていたら身が持たない」とも思って当然なくらい負担になると思います。時間を始め知識も技術もエネルギーも必要です。
もし「過食嘔吐がやめられないんです」という「入り口」を持ってやってきた患者さんがいたら、「ああそう、過食嘔吐ね」と若干「この人もか」みたいな考えを、まずはとりあえず置いておいてみてほしい。摂食の人はいっぱい診てきた、過食嘔吐の人にもいっぱい関わってきた、というその経験で、目を曇らせないでほしい。経験は宝であり強みだと思います。ただ、入り口だけでその人の宇宙を決めないでほしいのです。大体はこんなパターンだ、というパターン認識に頼り切らないでみてください。
その人のつらさ、病理、大丈夫なこと、NGなこと、できなくて困っていること、治療のやり方、リカバリーのかたちなどは、その人にしかありません。
同じ「頑張り屋さん」でも「がんばらなくていいよ」と言うのが効果的な場合と、頑張る性質を活かして「こういうふうにしてみたらどう?」と促してあげるのが効果的な場合と、それだけでも様々な気がします。頑張り屋さんを頑張らせるのはだめだ!という概念も、頑張り屋さんは上手に頑張らせてあげればいい!という概念も、どちらもそれはただの概念にしかすぎません。何が一番効果的かは、状態や状況に合わせてできるだけ賢く考えてみてほしいのです。容易いことではないと思います。でも、言ってみました。
摂食は十人十色、いや、十人いたら十の百万乗くらいの色がある気がします。(個人的な意見です)
100人いたら、100(以上の未知数)通りのつらさ、病理、NGなこと、大丈夫なこと、治し方、リカバリーのかたちがあると、私は感じています。
これは治療に携わっている人に限らず、摂食障害のある人と関わる人、そしてご本人にも、どこかひとつの考え方として頭に置いてもらえたらなーと思うことです。違って当たり前なのかも、って。
難しくてあたりまえ:終わりに
この記事の大きなテーマは、摂食障害をこれから知っていってもらう上でまず私が「困るなぁ」と思っていた「パターン・典型」についてでした。
自分で書いていても難しかったので、読んでくれた人はもっと難しいかもしれません。そんな私の「書きたかったこと」を最後まで目を通してくれてありがとうございます。
「書きたくなったら書くブログ」は大体の場合、書くきっかけが悔しさです。「どうして分かってくれないの!」「分かってほしい」という思い。それがあるから「言わぬが仏」ではいられないのかもしれません。
でも現実は、「理解してもらえなくてあたりまえ」なところが実際です。
心の病気は摂食に限らず、どれもその特定の苦しみを通った本人にしか分からないものがあるように思います。心の病気だけではないかもしれません。例えがあまりに疎放ですが、骨折の痛みは骨折した人には「記憶」があるから、思い出して「うわー、痛いよね」と共感できます。一方私は骨折したことが無いので「想像」して「心配」することが共感に一番近しいものとなります。
たとえ「理解されたい」「理解したい」の間に「できなくてあたりまえ」があるとしても、それを障害のままにしておく必要はないと私は思います。お互いの間に埋まらない「違い」「差」があったとしても、孤立しないで共存していく手段を探したいし、探してほしいなーと思います。
追記
ちなみに、マインドフルネスやDBT(弁証法的行動療法)をやっている方は、ようするに「価値判断せずに、一度に一つずつ、効果的に」「観察して、言葉にして、体験して」「+どうしていったらいいか一緒に考えましょ」ということになります。パターン化しない、はものごとをあるがままにそのままの状態で気づいて受け入れる、ということです。難しく聞こえますね〜。