マインドフルネスを初めて学んだとき
「気づく」ということでの恐怖や混乱の可能性は、どのくらいのものでしょうか。私の場合、最初は、マインドフルになんかなったら自分が今まで気 がつかないようにしていたものや、見ないように一生懸命目をそらしてきたことが全部頭の中に流れ込んできてしまうような気がしていました。それは非常に恐ろしいことだったし、どうしてそんなことが回復の役に立つんだと混乱したものです。マインドフルネススキルの「気づく」はどういうことなのか、いやいやマインドフルネスってそもそも何よ、という疑問がブンブン頭を飛び交っていました。
ひとつ、今書いていて思い出したのが、初めて資料を読んだときに「今自分が何を考え、感じ、どんな行動をしているか、周囲で何が起こっているかに意識を働かせている状態」と書いてあったので、スタッフに「シャーロック・ホームズみたいな感じですか?(注:写真上2つ)」と聞いたことです。その時の私のイメージでは、ベネディクト・カンバーバッチが演じるシャーロックが鋭い目で色々なことを「観察して」そこから得た情報を整理して、周りがびっくりするような「気づき」を「発見」して「分析」をしている感じでした。私にそんな天才的才能ないし・・・。
スタッフはそれとはちょっと違うかな、と易しく、マインドフルネスについてさらに詳しく話してくれましたが、私がようやく「もしかしてそういうことか」と理解したのはその2週間後になります。
きっかけは高校の教科書にあった小池昌代さんのエッセイでした。どうしてそれで合点がいったかは自分でもハッキリは分かりませんが、私の場合言葉の傍受システムが少し変わっているので自分にとって傍受しやすい言葉があったからかもしれません。もし気になる方がいたら著書『屋上への誘惑』内「カフェの開店準備」の章でチェックしてみてください。こちらに載っているようです。
今回「承認と非承認」を学んで
この時は自分なりに「なるほど」と思えた瞬間がきましたが、実は今困っていることがあります。先週の土曜(注:この記事を書いたのは6月でした)に学んできた「承認と非承認」についてです。こんぽ亭主催の講演会で、今回日本のDBTの第一人者である遊佐安一郎先生の話を初めて聞きにいったのですが、初めてマインドフルネスを学んだときと似た疲れを覚えて帰ってきました。これ以上書く前に、その講演会が悪かったり酷かったりしたわけではないことをことわらせてください。整体に行ったことのある方はなんとなくイメージしていただけるかと思うのですが、たまたま「好転反応」のようなものが強く出てしまって、「熱が出たってことは整体で悪くなったんじゃないか・・・」と一瞬思うのと似ているかもしれません。長期的に考えるとそれは出てきても「悪い」わけではない反応で、身体が変化に慣れると治まるものなのかなーと思います
この「承認と非承認」もDBTのスキルの中で大事なパートらしいのですが、私は初めて学んだので、いろいろ混乱が起きているようなのです。どうやら承認ができると色々役に立つらしいとか、非承認が起きるとつらくなるらしいとか、そんなことをよく噛まないで飲み込んだ感じなのですが、塊が大きい分ずいぶんと消化不良を起こしているようです。ここで承認と非承認について説明を挟みたいところですが、今の私には分からないことを伝えるのは難しいので、先に見送らせてください。うっうっ。でもいつか記事かけちゃうくらい分かるようになったらすごいぜ。
消化不良。別の言い方をすれば、マインドフルネスのときと同じ恐怖(強い不安)と混乱が起きているように思います。
講演後すぐ、母が「我が家は非承認だらけだね」と苦笑いしながらつぶやきました。私は「でもそれを価値判断したくない(決めつけたくない、或はジャッジしたくない)よ。苦しいから」と返しましたが、もしかすると心の中で「そうだよこのやろー!」と叫んでいた自分がいたかもしれません。なんだか、怒りがむくむくと沸き上がってきたのです。
少し話がそれるようですが、DBTスキルトレーニングのグループでもらった「スキルトレーニングの前提」という紙があります。
そこから、私が苦しいときに自分によく言い聞かせる2つを引用させてください。(ちなみに私の解釈の仕方があっている・間違っているは私でも分かりません。効果的かも危ういところです。なのでそこはなるたけ広い目で、「今のゆきこの解釈」として読んでいただけると安心です)
「私たちはすべての問題を自分で引き起こしたわけではないかもしれないが、自分で解決しなければなりません。(変化するためには、行動を変える必要があり、生活環境を変える必要があります)」
「行動の原因を見つけ出して変化させる方が価値判断して責めるよりうまくいきます。(価値判断して責めるのは簡単。自分の属する世界で何らかの変化を起こしたければ、望まない行動や出来事の原因となるような出来事の連鎖を変える必要があります)」
私は、スキルを学んできた2年少しの間どこか「(周りの人や自分の過去を)責めちゃダメ責めちゃダメ」と思ってきて(それが効果的じゃなくても)、スキルを頑張っていれば今のこの地獄のようにつらいのを少しでも改善できるかもしれない、少なくとも憎んだり呪ったりするより効果的なんじゃないか、と、頑張ってきました。(ただ、このスキルの前提も、スキル自体も、頑張るためにあるわけではないと思います)
少し心の病気の世界を知る人は、この「頑張る」ということが幾分危険でめっちゃキツいというのが分かっていただけるかもしれません。でも「頑張らない」というのもめちゃくちゃ難しいんです。
そんなこんなで効果的かは分からなくても、とにかくつねに精一杯頑張ってきた私にとって、今回「承認と非承認」について学んできたことは「えーもしかして非承認さえされなかったらそんなつらい思いしなくて済んだの?」みたいなアイディアが浮かんできてしまうこととなりました。つまり「頑張らなくてよかったってこと?なんだったの私」と混乱してしまっているようです。更には周りが今まで自分にやってきたことや、やっていることが、承認か非承認かを判断してしまうのです。入院中は承認が上手なナースがいたから心地よかったとか、診察の後で自傷した時は、そうかきっとあれが非承認だったからだとか、「痩せたね」と言われて不安になって過食して苦しくなって何時間も運動するのもそうじゃんとか、誰かに会う度に「元気そうで良かった」って言われるのが猛烈につらいのも同じじゃんとか。今までなんとなく我慢してきた不快感とか不満とかイライラとかガッカリを、今度は抑えるのが難しくなってしまったようなのです。すると、そういう感情を引き起こすきっかけを作った人を攻撃したくなるし、「だからそれが非承認じゃないのー!」と吠えたくなるし、死にたくなるのはあいつらが悪いからじゃん、と憎しみで頭が煮えそうになるし、「スキルの前提」に忠実にスキルをやろうという頑張りがちょっと嫌になるという現象が起きています。とはいっても、それはこの3日間のこと。初めてマインドフルネスを学んだときも、次の日病棟のホールでノートに「マインドフルになんてなったら危険だ」と殴り書きしていました。それでも、相談と練習を繰り返すうちに小池昌代さんのエッセイをきっかけにちょっと納得してみたり、下手とか上手も判断しなくていいんだと知ったり、一緒に参加している仲間と「難しいよね」と悩んでみたり、自分なりのヒントとナットクを拾い集めてきて今に至っているようにも思います。2年ちょっとたった今、ようやくマインドフルってなんか面白いな~と思っているわけですから、今回新しいことを学んで「なんて興味深いんだ!ぜひ効果的に使っていこうじゃないか!」といきなりはならないのもしょうがないのかもしれません。
もしかしたら、先ほど書いたような我慢してきた不快なことを、今までは「いやいやこの人には悪気があるわけじゃないんだから、怒っちゃダメだ」と無理やりに我慢していたのかもしれません。本当は結構つらくて、ひとりになってから泣いたり過食したり自傷したりしていたこともあります。もし、無理やりに我慢しないでも、うまくやり過ごせるようになったらそれってすごいことかもしれません。「スキルの前提」を読んで「そうだ自分が頑張るぞ」と意気込まなくても、自分が納得して無理をしないでもできるようになったら、それもすごいことかもしれません。(繰り返すようですが、スキルの前提もスキルも、頑張るためにあるわけではないと思います)
もしかしたら、「マインドフル」がそうであったように「承認」や「非承認」では傍受できていない理解が、別の言葉でできるなんてこともありえるかもしれません。
承認と非承認を初めて聞いた方には、「な、なにかしら一体・・・」と不安にさせてしまったりとっても難しいというイメージを与えてしまったりしたかもしれません。どちらかと言うとこれは「学びの体験の中で起きた苦しみ」についての記事で、「承認と非承認」についてや「マインドフルネス」についての記事ではないということを恐れ乍らことわらせてください>< 今回のことをきっかけに、今自分には新しいことに気づいて色々ギョッとしたり、混乱したり、恐くなったりするということが起きているけれど、それってどういうことかしら?というのをちょっと考えてみたのであります。私は具合が悪いときは特に、変化やオドロキに激しく反応してしまう傾向があります。なのでみんなが私と同じだろうというわけではありません。ひとつのケースとして「ゆきこはこーなんだー」と知っていただければ安心です。冒頭で述べた「可能性」が、私の場合ちょっとばかり大きいのかもしれません。
今マインドフルネスを面白い・楽しいと思えるのも、難しさ・恐さ・混乱などの道をびくびくしながら通ってきた苦しさも含めて、そう思えているのだとしたら、まだ難しいと感じることはあるけれど、私にとっては嬉しいことです。「気づけるって嬉しい」、それは2年前病棟でノートにマインドフルネスを恐ろしいし危険だと殴り書きしていた頃にはイメージしづらいことだったと思います。今のこの苦しいのも、少しずつ景色が変わるかもしれない。時間はかかるかもしれない。そんな風に、書きながら思ってみるのでした。