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執筆者の写真Yukiko Yoshida

依存症ラビリンス①



依存症と聞いて

アルコール、ドラッグ、セックス、カフェイン、ショッピング、ニコチン、ゲーム—。

依存症はわりかし世間に知られている「病気」だけど、抜けられなくて本当に本当に困っている人の「苦しみ」はどれくらい知られているんでしょうか。

テレビで見たり、映画で見たり、知り合いにいたり、耳にする機会がある人は多いかもしれない。

禁煙外来がCMで広告されるようにもなって、社会的に依存症を問題視するようになった時代なのかな、と考えたりもします。

でも日本はまだまだあまり「知ろうとしない」「知られたくない」の空気があるようにも感じて、だからか心の病気がテレビでおどろおどろしく描かれるのを見るとまるで自分らが珍しいモンスターにでも仕立て上げられているみたいに思えて苦しくなるゆきこです。

「珍しいモンスター」は少し表現が過ぎたかもしれませんが、事実、そうしたくなくともモンスターみたいに振る舞っちゃうことはあるかもしれません。

「人が変わっちゃった」とか、「どうしちゃったの?」とか思わざるを得ない、受け入れがたい姿を見せてしまうこともあるかもしれません。

依存症の本人が周りの人を巻き込んで傷つけてしまうのは、残念だけどよく起きてしまっていることです。

私も、その1人です。

私を個人的に知っている人で「えー、ゆきちゃんはそんなことないんじゃない?」と思ったら、それは私が見せていないだけだと思います。

依存症は否認の病とも呼ばれているらしく、本人が自分で自覚をすることが少ないそうです。

依存症の本人がプロの助けが必要なほど苦しい状態になっているのを知る人が少ないのは、自分でも分からないのと、分かっててもわざわざ見せたくないのと、色々な複雑な理由があるからだと思います。

(病気についてじゃなく苦しみについて知ってもらう前に、まずは「こうなんでしょ?」という先入観をいったん置いといてみてください。好奇心から知ろうとしてくれるのもいいけれど、どうせならフェアに知ってほしいなぁ、と私は思うのです...;;もっと言うと知識による「知っている」と、体験による「知っている」も若干違うかもしれないので、少し新しいことを聞くみたいに頭を白紙にして読んでみてください。)

 

抜け出せない地獄

依存症になる。この状態は、本人が元々耐えて耐えて耐えきろうとしていた何かに、めちゃくそ追いやられている状態ではないかと私は考えます。

耐えて耐えて耐えきろうとして、自分をなんとかして慰めようとする。やり過ごすためにとりあえず試してみたことで、その状況を生き延びれちゃった。ああクソ、なんかモヤッとした感じとか嫌な感じはあるけど、なんか気分よかった。ああ、気分よかったんじゃん。

あれれ、また、耐えきれない何かに心も頭も絞め殺されそうになる。どうしようどうしよう。ああ気分クソ悪い。どうしよう。あ、あれ。あれすれば気分よくなる。くそ。いいや。やっちゃえ。

でも気がついたら、別にやってても気分よくならなくなって、エスカレートする。それでもうまくいかないから、人にもあたる。なんで自分がそんなことしちゃっているのかも分からなくなる。何で自分こんなことしてるんだ?と一瞬考えがよぎる。しかし頭を振って、そんなこと考えてる場合じゃないって自分に言い聞かせる。なんとかしなきゃ。なんとかして気分よくしなきゃ。悩んでる場合じゃない。

—この時点で、自分では賢い心で効果的な判断をするのがとても難しくなっています。「やめたほうがいいんじゃない?」そう言われると、余計に逆上してしまいます。「じゃあどうしろっていうんだよ!」そう思うからです。

なんとなく「もしかしてこれだとうまくいってない?」と自分でチラリと思っても、どうすることもできないのです。時々一瞬頭が落ち着いて、「一体自分は何をしているんだ。もうやめよう」そう思うことがあっても、気がつくとそれのことばっかり考えていて、ほんの小さなきっかけでバッと戻されてしまいます。毎回、ことが過ぎた後に、もうこれでやめよう、これで最後にしよう、と歯を食いしばりながら思います。なのに、やめられない。

映画なんかでみるアルコール依存とかと似てるかもしれない。「よく聞くよね」「そういうもんらしいね」—でも映画なんかで描かれるのよりも現実ははるかに醜くて、みじめで、苦しくて、混乱していて、ドロッドロで、悲しいやらムカつくやら、悔しいやら、色んな地獄のような痛みを味わいます。私はそうです。

例えが難しいけれど、写真で見るより実際に行ったらハワイもオーストラリアもめちゃくちゃ綺麗に感じたり、震災の被災地をテレビで見るのとボランティアで実際に現地で自分で見るのとでは違いがあったりするのと、幾分似ているのかもしれません。自分の視覚や聴覚以外の、すべての感覚を全身で味わうわけです。地獄を見ることと、地獄を生きることは違うと感じるのはこのためです。

 

BPDと依存症

私自身はアルコールの依存症ではありません。

でも、色々なもので他の依存の地獄にいるから、アルコールがすごくこわいです。もし気分がよくなっちゃったらどうしよう。ヤバいくらい辛くなったときに、アルコールに頼りたくなっちゃったらどうしよう。どうしてそれがこわいかというと、たまたま病院でアルコールで苦しんでいる人たちを見たことがあったり、ただでさえコントロールできない感情を自ら変動させたくなかったり、すごくこわくなる理由が頭の中で鳴り渡っているからです。もしかすると、幾分「アルコールは悪いぞ」という白黒思考があるかもしれません。だとしても、恐怖という感情があるから、今は全力で回避しているのが実態です。

なんだか、BPDと依存症は恐ろしいコンビネーションな気がします。

もともと、依存症の始まりは埋められない「さびしさ」にあると言われています。

悲運ですが、BPDの特徴に「慢性的な空虚感」が挙げられます。(BPDのみんながそうとは限りません)

泣いてても笑ってても空虚。何してても虚無。空っぽ。Empty.

その空虚感が究極的に自分を占めるようになると、がむしゃらにでも、何でもいいから、何かを感じられるようにしようとしてしまうことがあります。痛みだろうが、快感だろうが、何だっていいんです。

腕を切って、ボーッと血をみたり、切っても切っても何も感じられなくて「なにこれ」と思いながら切り続けたりしてしまう。あ、痛い。ああ、痛いんだ。ふーん。痛いんじゃん。こうなっているとき、もしかすると本当は解離(自分が自分じゃない感じ)しちゃうくらい苦しくなっているときかもしれないです。痛いという感覚とか血を見る興奮で刺激を感じ続けないと、なんだか気が保てないような感じがします。

又「気持ちよくしてくれるもの(快感)」を、強い執念みたいなものを持って、取り憑かんばかりに求めたりもします。自分じゃ見えないから分かんないけど、こういうときの目って近くで見たら「空っぽ」なんじゃないかって自分では感じます。

「なんでそこまでしちゃうの...?」と思うかもしれません。

そこまでしても、ほとんど何も感じられないんです。そういう苦しみを、この病気はどんどん生みます。心の問題だけでなく脳神経の問題もあるだろうけれど、とにかくそれだけ精神状態がメチャクチャになってしまっているのだと思います。

加えて、BPDのもう一つの特徴として先ほど述べた「白黒思考」が挙げられます。(これもみんながそうではありません)

「良いか悪いか」「できるかできないか」「効くか効かないか」「正しいか間違ってるか」「有るか無いか」「するべきかすべきでないか」「安全か危険か」「大好きか大嫌いか」—。物事を見たり考えたりするときに、どうやら両極端になってしまうようなのです。それは0か100かの世界、二面的な世界です。私のアルコールへの恐怖がここに影響している可能性は、この特徴にあるかもしれません。すぐには全部できるようにならないかもしれないけど、物事や人を多面的に見れるようになってきたら、それはめちゃくちゃすごい進歩だと思っています。トラウマの記事で紹介した「式」を少しずつできるようになる如く、DBTや他のスキルも使っていけるといいなと願います。

 

トラウマのシリーズを一旦終えて、次はコミュニケーションについて書こうかな〜なんて思ってたら、それどころじゃなくなりました。ゴホゴホ

コミュニケーションも個人的にタイムリーなトピックだけれど、今はそっちよりも危機的な問題として依存症を見いだし、書きたくなりました。

この記事は「回復後」に書いているわけではなく、只中にいる状態で書いております。聞こえが生々しくて不快だったり、少し支離滅裂としたりする部分もあるかもしれません。パソコンに向かいながら、今だから伝えたいことを書いていきたいと思います。感情的に書くと後から後悔するし、かといって非の打ち所の無い記事を書くことはできません。今はそんな感じです。

「え、大丈夫なの?」と思われたら、うーん、大丈夫ではないです。でも只中にいる人の記事を、少し真剣に読んでくれると書き手としてのやりがいが少しあります。少し回復した後で読み返して、文章を書き直したりしたくなるかもしれないけれど、let's see how it'll turn out.

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